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境目
 逃げて逃げて逃げて。どこまでも逃げて。
 捕まったら大変。ね。

 母さんから聞いた最後の言葉。
 いつもの食卓。珍しく家族全員そろった食卓。
 突然の母さんの言葉。父さんも兄さんも俺も軽く聞き流していた。少なくとも俺は。
 次の日学校から帰ったら母さんはいなくて。どんなに探しても母さんはいなくて。

 母さんがいなくなってしまったというのに父さんも兄さんも全くいつもと変わりが無い。警察に届けたのかどうなのか。聞いてみたけれど二人とも困った顔をして笑っていた。
 
 父さんは一見普通だ。でも俺は知っている。いつもと同じように会社に出掛けるふりをしてどこか会社では無いどこか別場所に行っている事を。
 いつものように学校をさぼって町の小さな商店街でぶらぶらしている時に町父さんを見つけてしまった。父さんはとても必死な顔をしていて何だかいつもの父さんじゃ無かった。きょろきょろと辺りを見渡して建物の影に隠れるようにして移動していた。
 次の日会社に出掛けた父さんの後をつけてみた。父さんは家から少し離れると物凄い速さで駆け出した。普段運動なんてしないのに恐ろしいスピードで。見失わないようにするのがやっとだった。そのまんま丁度バス停に停まったバスの飛び乗って行ってしまった。会社とは全く逆方向の町へ。
 自分も学校をさぼっている癖に父さんに対して無償に腹が立った。母さんがいなくなって大変な時なのに一体何をしているんだ。

 怒りを押さえきれない俺はその晩父さんの事を兄さんに言った。
「まぁ仕方無いんじゃあ無いか。だって追われているんだろう。会社になんか行っている場合じゃあ無いものな」 
 冗談で言っているのか。それとも母さんの言っていた言葉に何か意味があったのか。
「そろそろ俺達の番だぞ。俺は一人でも良いけれどお前はどうする?」
 今までこちらに顔を向けることなく熱心に新聞を読んでいた兄さんが俺の方に顔を向けた。その顔は冗談を言っている顔じゃあ無かった。兄さんは知っているのか。一体何が起こっているのかを。
「何に追われているのかとか。とか俺には色々分からないんだけれど」
「冗談だろう?」
 そう言って兄さんは笑う。兄さんは母さんがどこへ行ってしまったのか知っているのだろうか。
「兄さんは母さんがどこへ行ってしまったのか知っているのか?」
「そりゃあ、まあ。ね」
 どことなく含みのある言い方をする。いつもの兄さんじゃあ無い。
「もうこの話はもう良いだろう。あまり気分の良い話じゃあ無いしな」
 露骨に嫌そうな顔をして又新聞に顔を戻す。
 新聞を乱暴にむしりとって放り投げる。
「ちゃんと話をして欲しい」
「知っていても知らなくても結果は全く変わらないぞ。本当にお前が何も知らないのなら俺はお前が心底羨ましいぞ」
 そう言って兄さんは微笑んだ。
 
 それが兄さんから聞いた最後の言葉。

 父さんは居間に座って満足そうにしている。座ったまんまそこから動かない。もうずっと何日も。垂れ流しの酷い糞尿の臭い。父さんは全く気にしていないようだけれど。

 兄さんがいなくなった次の日物凄い量の食料を買い込んできた。それからあわただしく家中の窓とカーテンを全部閉め切った。俺は唖然とそれを見ていたそうしたら、
「何をやっているんだッ! お前も手伝え」
 ギラギラと光る目で。つばを沢山飛ばして。物凄い大声で。そうしてしこたま殴られた。

「これで大丈夫。大丈夫だから。父さんはとお前はこれで大丈夫だから。母さんと兄さんには運が悪かったんだよ。そうだよ運が悪かったんだよ。だからだからだから。お前は安心してずっとここで」

 父さんは満足そうに笑っている。

 何日間か考え続けた。そうして結論を出した。
 ある日早朝こっそり玄関から外へ出て施錠した。
 父さんは外からの音に物凄く敏感で少しでも窓が音を立てると大騒ぎする。だから慎重に。そっと戸を開けてた。そっと外へ出た。そっと鍵をかけた。靴は外で履いた。
 
 何が来るのか分からないけれど。けれど一目見てみたかった。母さんと兄さんがいなくなった理由を。
 そうしたら目の前に知らない人が立っていた。
「あぁ。ずいぶん待ったよ。鍵を開けてくれないか?」
 ……!!! こいつだ。
 目の前に立っている人は普通としか言いようの無い人だった。俺より頭一つ分背が高くてくたびれたスーツを着ていて腕から鞄を下げていた。町で見かけるサラリーマンと何ら変わらない。でも、普通じゃあ無くて。俺の頭は混乱した。目の前の人が俺の家族に何か恐ろしい事が出来るとはとても思えなかった。
「父さんに、何か、用が、あるのですか?」
 もしもそいつにあったら怒鳴りつけてやろうと思っていたのだけれど得体の知れない恐怖を感じて思わず敬語を使ってしまった。そんな自分が一寸情けなくて。
「鍵を開けてくれないか?」
 同じ事を繰り返す。
「出来ません」
 震える声で答える。
「じゃあ自分で開けるから鍵を貸してくれないか?」
 震える声で尋ねる。
「違うよ」
 そう言って薄く微笑んだ。
「じゃあどうするのですか?」
 結構普通に会話が出来る事にほんの少しだけ安心する。
「君には関係無いよ。知る必要も無いし。知らない方が絶対に良いし……うん」
「どういう意味ですか?」
 一寸考えているようなそぶりをして、
「そう、知らない方が絶対に良いね。俺も知らない方が良かったなぁと今だに思っているし。うん」
 そう言って薄く微笑んだ。
 その笑顔は本当に普通で。
「どうしても鍵を貸して貰えないのならもう扉を壊すしか無いんだけれど、君はそれで良いのかい?後で弁償して欲しいと言われたらこちらとしても困るんだけれど」
 鍵を差し出した。
 
 その人は鞄を塀に立てかけて家の中に入っていった。ちゃんと靴を脱いで。玄関の外で立っていた。一緒に中に入っても恐らく良かったのだろうけれどそんな勇気は無かった。そうして色んな事わからなくて動けなかった。父さんがどうなるのか。とか。色々考えていたけれど結論が全く出そうも無い。でももう二度と父さんには会え無いんだろうな。と言う事だけは理解する事が出来た。家の中から何かおかしな物音が聞こえたりとかそういうのは全く無くて。静かに時間だけが過ぎていった。

「終わったよ」
 差し出された鍵。恐る恐る受け取る。
「父さんはどうなったんですか?」
 聞かなければいけないような気がして。
「さぁ。ね。……」
 そう言って薄く微笑んだ。
 
 俺はこれからどうしたら良いのだろう。親戚や近所の人に何て説明したら良いんだろう。明日からどうやって生活をしていけば良いのだろう。思わず涙ぐむ。

「大丈夫。何とかなるよ。実際俺がそうだったし。ね」
 俺の肩をポンと叩いて薄く微笑んだ。そうして腕時計を見て、
「ああ、そろそろ行かないと遅刻してしまう」
 そうして俺の耳元に一言。そうして笑いながら去って行った。

 俺は追われていなかった。追われていたのは父さんと母さんと兄さん。
 ドッと力が抜ける。家の中に入る。父さんがいた筈の場所には何も残っていなかった。糞尿の後が残るだけ。まずそれ綺麗に片付けた。それから家中のカーテンと窓を開け放った。新鮮な空気が入って来る。気分が良くなる外へ出られなかった間たまっていた食器を洗った。

 あの人が言った一言。
「じゃあ、又後で。ね」

 まだ終わっていない。元へは戻れない。何かが終わっていない。何がかはサッパリ見当が付かないのだけれど。

トラベルミン