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Okithugu Tanuma
 頭の芯がぼんやり霞んだ感じ。何もかもが良い感じにそして微妙にピントが合わない世界。彼の名前は田沼意次。偽名。本当の名前は忘れた。忘れた事にした。ずっと信じていた仲間達と一緒に暗くて深い洞窟の壁に塗り込めた。
 それから意次は自分で物事を考える事を一切止めた。
 自分でも何故だか判らないけれど小さな頃から人に裏切られるのがどうしても嫌だった。その自分が信じていた仲間達(名前や人数はすでに忘れた)が事もあろうに自分を裏切った。信じられなくてそして許しがたい事だった。人を殺すのは初めてだったけれどどうしても殺さないといけなかった。皆・大好きな気の合う奴らだった。でも、自分を裏切った。殺してしまうしかない。仕方の無い事だった。魔物の巣食う洞窟の中では法律は機能していない。本当の所は違うのかもしれないけれど少なくとも彼はそう思っていた。だからキャンプ中に毒入りの酒を勧めた。とても辛く哀しい事だったけれど。皆・物凄い表情をして汚物を吐き出して咽を掻きむしって死んでいった。酒を飲まなかった奴は後ろから斬り付けて殺した。血が生暖かくて気持ち悪かった。皆の変わり果てた姿を見るのはとても辛かった。そうして独りで作業するのはとても骨が折れたけれど壁に塗り込めた。泣きながら作業をした。
 士官をするのが夢だった。その夢を皆は馬鹿にした。スラム育ちで学も全くないお前が無理だと笑った。自分の夢を人に言うのは初めてだった。内面をさらすのは初めてだった。本気で気を許したから夢を話したのに。理解してくれると思ったのに。それなのに。裏切られた。そう思った。哀しく辛い出来事だった。
 頭がしっかりしている時は仲間達の断末魔や苦しそうな顔。恨みの声が消える事は決して無かった。彼はそれは全然平気だった。だけれど、仲間が自分を裏切った事を考えると辛くて辛くて辛くて辛くて仕方が無かった。だから酒におぼれ、薬に溺れた。洞窟で稼いだ金は統べて酒と薬に消えて行った。酒と薬の為なら何でもやった。本当は剣の腕が売りの冒険者なのだが頭がふやけきった状態では腕を売ることは出来ない。だから代わりにに身体を売った。自分の身体に貨幣価値があるのが新鮮だった。初めて買われた時、金を手渡された時、久し振りに心の底から笑った。何故笑いが込み上げて来るのかは全然理解出来なかったけれど。そうして何故か涙が出た。何もかも判らない事だらけだった。
 そんな毎日をだらだらと続けていた時、彼と出会った。出会ったというよりもいきなり目の前にいた。背が高くて冷たい雰囲気の男だった。ふと気が付くと綺麗な台所の椅子に腰掛けていた。大陸風の調度。その前の記憶が全く無い。どうしてここにいるのか? こいつは誰か? 判らない。彼は何かを煮込んで居るようだった。生臭い肉の良い臭いがした。「もう少しで出来るから」低い声だった。何か、有無を言わせぬ迫力があった。帰りたかったけれど何か動いたら何か悪い事が起こりそうな予感がした。頭がだんだんはっきりして来るのがわかった。だんだんと頭の中で色々な物が像を結びはじめる。全てがはっきりしてくる。怖くなった。助けてくれ。気分が悪い。気分が悪い。気分が悪い。大体この男は誰だ。誰だ。誰だ。酒か薬が必要だった。緊急に。そう思ったら思わず声に出してしまっていた。だが男は「そんな物よりも何か栄養のある物を食べた方が良い」と全く関係ない事を言う。質問に答えてくれない。あるのか。無いのか。栄養なんか必要無い。必要無い物を押し付けようというのか。いらいらする。そう思った時にはテーブルの上に飾ってあった綺麗な綺麗な花瓶を片手に殴り掛かっていた。殺すつもりだった。自分の思い通りにならないも物は消えろ。思いきり顔を殴られた。ぱりんと花瓶が割れる。物凄く痛かった。そうして無理矢理席につかされた。痛い。物凄く。歯が折れなくて良かった。しばらくじっとしていると美味しそうなシチューが振る舞われた。食べるしかない。逆らって又ブン殴られるのは嫌だった。痛いのは嫌いだ。食欲は全く無かったけれど少しずつ口に運んだ。相手は満足そうだった。名前をシャン・ツンというらしい。すぐに忘れるから名乗らなくても良いのに何て馬鹿丁寧な奴なんだろう。その後風呂に無理矢理入れられた。自分が汚れ切っている事にその時気がついた。汚物まみれだった。薄汚れた路地の隅でうずくまっているだけの毎日。優しい夢だけ見ている毎日。それも水と一緒に洗い流されていくようで何だか少し寂しかった。足の裏は注射の跡が一杯で気持ちが悪い。見えない所に打っていたのにそれを見られてしまった。一瞬、殺そうと思ったけれど殴られるのが怖いので諦めた。
 風呂から上がったらとても咽が乾いた。台所をようやく発見して冷蔵庫を開けた。瓶詰めの内臓。人の頭。手。足。まだ頭がはっきりしていないんだ。幻覚が始まった。いつもの事だ。そう、いつもの事。ふと、鍋が目に止まる。先程振る舞われたシチューを煮込んでいた物だ。嫌な予感がする。とても。もしかして自分も喰われるのか? 逃げないと。身体と頭の芯からすっと何かが通り抜ける感じがした。吐きそうにもなった。スラムで人が消えても誰も気にも止めない。そういう事か。せめて最後に薬を。頼む。「何をしているのか」後ろを振り返る。ふるえる声で「冷蔵庫」としか言葉が出なかった。「ああ、見たのか。でもお前には関係ない事だな」別にどうって事無いように答える。狂っているのかこの男は。でも人の事は全然言えないなと思うと少し笑えた。
トラベルミン